(第20回)”小林城について”

 

小林牧の里団地、浅間の交差点より東方面に本埜地区へ向かう県道バイパスが走っています。平成3年までは城山が立ちふさがり行止りでしたが道路が横断するため城山を取り崩すことになりました。そのため文化財調査が千葉県文化財センターにより平成3(1991)年6月より3カ年をかけて行われました。

実はその以前、昭和59(1984)年にも小林城址の発掘は九十九里総合文化研究所によっておこなわれており、「南北朝(14世紀)の初期に造営され、戦国時代(16世紀)に至り大規模な改修・拡張工事が行われた」ということは分かっていました。

 

しかし、発掘をしてみると〈先土器時代>や<縄文時代>の石器、土器、<古墳時代>の土師器、埴輸、石棺、金属製品、<奈良・平安時代>の須恵器。そして城郭がつくられた<室町時代・戦国時代>の土師質土器、瀬戸・美濃の天目茶碗や皿、小壷、土器、常滑大甕、磁器、銭貨、石硯、砥石、茶臼、五輪塔、板碑、金属製品、漆、火葬骨、貝、炭化米など、沢山の遺物が出てきました。数千年前の昔から人々が住み続けていた地域に中世になって城が築かれたことを意味しています。

かつてこの城山の付近には「宿」、「要害口」、「大門口」、「出兵谷津」という小字が残っていたと言います。また、「根古屋」、「城内」という屋号もあったそうです。

小林城から1キロほど先の笠神地区には南陽院というお寺があり、その場所も笠神城という城址があり、小林城の出城といわれています。平成3年当時、何か城に関係がある物が残っていないかと思い南陽院を訪れました。住職さんは小林城の城主・原豊前守の位牌があるといって30センチほどのその位牌を見せてくれました。そこには「天文十四(1545)年六月十四目」、「南経院殿峯盛大居士」と書かれていました。

 

小林城の原豊前守というのは本佐倉城(酒々井)の千葉胤富や邦胤に仕えた筆頭家老格の直臣で原胤安・胤長・邦長の親子3代にわたって活躍した武将のことです。臼井城主の原胤貞・胤栄とは親戚関係にあたりますが、小林城の3人とも生没年は分かりません。天文14年というからには原胤安のことでしょうか。

本佐倉城主の千葉介邦胤が天正10(1582)年、原豊前守に印西の地を「守護不入」の地とする文書を発給しています。当時、原氏は印西地域の支配を千葉氏から獲得していたと想像されます。

天正18(1590)年、豊臣軍によって北条軍の小田原城が落城し戦国時代は終わりました。松戸の「本土寺過去帳」には、彼らの妻たちとおもわれる記録が残っていますが、北条方に属した小林城の敗軍の将、原氏たちは何処に行ったのでしょうか。墓の所在は分かりません。

印西地域史研究会 松本隆志氏 寄稿