成田線の歴史は、成田山新勝寺の三池照鳳氏ら23名からなる発起人により、総武線佐倉駅から成田を経由し佐原にいたる路線を申請(明治26年7月)した下総鉄道まで遡り、認可後、成田山にちなんで成田鉄道と名を変え、明治29年(1896年)、成田鉄道株式会社が設立されます。明治30年に佐倉-成田間、翌年2月には佐原まで開通、一方、我孫子方面へは、関東鉄道が申請していた路線を成田鉄道が継承し、明治34年2月、成田-安食間、同年4月安食-我孫子間が開通した。この成田鉄道は、大正9年(1920年)に国有化され、成田線として今にいたっている。
成田-我孫子間開通当時、駅は安食・木下・布佐・湖北のみで、小林駅は遅れること4ヶ月、明治34年8月開業となった。この遅れについては、小林駅建設予定地の小林新田(旧本埜村)地区住民の反対があり、計画が進まない中、小林台方で医師をしていた松田氏が、部落の要職を勤めていた砂田の鈴木氏と協力し、住民の説得や私財を投じるなどして現在の場所に小林駅ができたという経緯がある。
《もうひとつの成田鉄道》
成田駅前から不動尊前、宗吾霊堂を結ぶ路面電車を運営していた成宗電気軌道(大正5年、成田電気軌道に改称)と千葉県営鉄道八街線(三里塚-八街)・多古線(成田‐三里塚-多古-八日市場)が母体。成田電気軌道は、大正13年京成電気軌道傘下に入り、昭和2年、千葉県から鉄道事業(八街線・多古線)を譲り受けた。このとき、成田鉄道と改称されたが、昭和15年、陸軍飛行場建設のため八街線が撤去され、さらに戦争末期の昭和19年末、不要不急線として多古線が廃線となり、線路は南方戦線に送られたり弾丸になったりしたといわれている。戦後、成田鉄道の鉄道事業は復活されることなく、バス事業主体の会社となり、現在の千葉交通に引き継がれている。
《新田鉄橋》
小林駅を出た成田行の列車は、左に大きく曲がり、鉄橋(新田鉄橋)を渡ります。下に川があるのではなく田んぼの中を5連もの長い鉄橋を渡っていきます。前後は土手になっているのに何故でしょう。それは、成田鉄道が建設された頃、まだ利根川の水運が盛んで、利根川(将監川)から印旛沼を結ぶ運河建設に備えたものだったようです。
[印西歴史愛好会 大貫秀雄氏 寄稿]