(第23回)小林駅よもやま話 第2話 駅周辺の賑わいと空襲

小林駅が完成した当時は、乗降客もなく、家の数は5軒しかなく駅前周辺は五軒町と呼ばれた。小林駅乗降客の増加は、当時の尋常高等小学校小林分校尋常科で学んだのち木下の本校にある高等科に通う生徒と、関東大震災以降に発生した東京行商(成常青果組合)によるといっても過言ではない。このように、小林駅周辺は賑わいをみせるようになりました。
この東京行商は、湖北からとされていますが、戦後の昭和24年頃だったでしょうか、行商組合の再発生に関連して、ヤミ米列車に係る汚職が摘発され幹部が逮捕されるなどの事件を経て、組合員数や朝市などで小林が沿線ナンバーワンとなった。現在は、その規模は小さくなったものの朝市はこの沿線で最後まで残っています。
昭和20年7月、この日はグラマンよりもムスタングの空襲が激しかった日で、成田発我孫子行の貨物列車が小林新田を通過中に、木下方面を南下する数機編隊があり、小林駅に侵入するころには、線路南側の台地の影に入ってしまい、「やれやれ発見されずにすんだか」と小林駅に停車したところ、ムスタングP51一機が、駅南側台地上すれすれに飛来、銃撃され、機関車と保管庫、トイレに銃撃による被害が発生、貨物列車は運転不能となった。保管庫とトイレの壁には、30年代頃まで、その弾痕を補修した後が残っていました。ちなみに、この日、大森町では六軒の第九十八銀行(現千葉銀行)と隣の瀧田商店の倉庫が被弾、銀行の前で、馬一頭が死亡。
最後に、成田線の上りと下りについて、ややこしい話をひとつ。たしかに、成田発我孫子・上野方面行の列車は上り列車なのですがその列車の走る線路は、成田・佐倉方面が上りなのです。つまり、下り線を上り列車が走っているということになります。成田線は起点終点が県内にあり、このような場合は県庁所在地に近い方が起点となることになっているので、佐倉が起点で、我孫子方面、佐原方面に下って行くことになります。ちなみに、木下は佐倉起点32.0キロ、布佐は佐倉起点33.9キロ。(編者注:小林は佐倉起点22.7キロ)

[印西歴史愛好会 大貫秀雄氏 寄稿]