(第24回)山裾に 白ゆり 匂う小林

(当会会員 遠藤應子さん寄稿)

今から約70年ほど前、私は戦争末期の東京から小林へ家族五人で疎開してきました。その頃の小林周辺の様子を思い出すままにお話ししてみます。

まずSL列車から小林駅に降り立った時の駅前は、農家の竹の垣根が横に長く続いていました。この農家とは元市会議員川村一幸氏の生家だと後になってわかりました。道に沿ってその隣が杉田商店、酒塩等を売っていたと思います。現在の杉田会計事務所です。

24-1その隣は、丸通の仕事をしていたマルコさんの住宅でした。道路をはさんで現在のタバコ屋から千葉銀のATMあたりまでは、駅助役の官舎がありその並びに丸通の倉庫が、現在のタバコ屋あたりまで続いていたと思います。丸通の倉庫の北側、現在の自転車駐輪場あたりは貨物列車の引き込み線と、荷物を積み降しするホームがありました。子どもの頃、貨車から木材や米俵のような物の積み降しを見たことがありました。駅前道路をもう少し進みますと、道の両側に農家、かごや、畳や、大木旅館俗にいう大木そばや、現在は廃業しています。その先向かいに桜井材木店があり、その空き地で当時の若い衆と呼ばれた青年達が集まり素人演芸が盛んに行われ、近在の人々がたくさん見物に来ました。24-2

さて、駅前通りの南側の家々の裏に目を転じると、田んぼの向こう西は光明寺から小林小学校、鳥見神社、小林牧場、大門下、小林浅間、浅間山公園と、駅前の西から東まで全部が山又山の山林でした。戦後の私達は、今の内田医院の前から細い山裾を歩き山の中に入って枯れ枝を集め薪にしたものです。遠く山裾から家の前までの田んぼでは、ざり蟹や田螺を捕って、ざり蟹は茹でて食し、田螺は茹でて殻から身を出し、味噌と砂糖で甘辛く味をつけ、とても美味しいと思って食べました。小林に住むようになってからは、緑豊かな山や 田んぼを見ながら暮らしました。夏には山裾に白い大きな山百合が咲き、やさしい匂いが伝わってくるような小林でした。