(第6回)“小林の歴史”

私達のまち小林は、慶長七年(1602)検地が行われ、検地帳には、「印判郡印西庄小林郷」とある。(近隣旧事記 松村家文書)古くから村内は三組に分れ、寛永二年(1625)から、馬場方、台方、辺田方の三組に分かれ、小林新田は寛文五年以降幕府が行った利根川沿いの埜地開発で成立した新田を延宝元年(1673)に代官守屋権太夫が検地高入れしたもので、明治七年(1874)頃小林村に合併、小林村鏡(五十嵐家文書)によると、慶長七年当時の家数40、享保十九年の家数144、人数612、馬51、神社は鳥見(とみ)神社、南弘防帰国稲荷神社、愛宕神社、八坂神社など、寺院は天台宗光明寺、西福寺、光明寺境内には暦応四年(1341)銘の常総系板碑がある。鳥見神社は縁起によれば、崇神天皇五年創立と伝え、大和国城上郡鳥見白庭山鳥見大明神を分霊勧請したという。鳥見十八社の総社といわれる。景行天皇が東国巡回の折、鳥見の丘に立って霞の里(常総国行方郡)の景色を眺望したという。同社は千葉氏北方の鬼門除けとも伝えられ、永禄十一年(1568)の棟札写によれば、城主千葉介胤富が大檀那として本殿、拝殿を改築している。

現社殿は安永六年(1777)の造営。現社地から北の利根川を望む台地上に古鳥見神社跡がある。また小林城址が低地帯に突き出た台地上にある。宅地造成などにより大半が崩壊したが、周囲には城山、宿などの小名や要害口(ゆげぐち)、出兵谷(しゅっぺいやつ)、城内(しゅうじ)など通称名がある。治承四年(1180)朝比奈三郎が築城し、天正年中(1573~92)には原氏の支城であったといい(東国戦記)「利根川図志」は「常総軍記」を引いて、天正十三年頃 小林十郎左衛門の砦であったという。発掘調査によると、十四世紀末には在地領主の宗教的施設として存在し、十五世紀半ばに土塁や空堀をめぐらして築かれた。

十六世紀半ばには改造が行われ、十六世紀後半から末にかけて廃城になったと推定される。「平凡社地名辞典参照」明治二十二年の町村制施行により、別所村、竹袋村、宗甫村、平岡村、小林村が合併して印旛郡木下町小林となる。

昭和二十九年木下町、大森町、船穂村、永治村の一部が合併して印西町小林となる。そして、平成八年(1996)四月、市制を施行して千葉県で三十一番目の市、印西市小林となり今に至っている。

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