(第13回)”光明寺”

小林駅より南方向へ250mほど歩き、右折すると光明寺の参道が左手にある。天台宗の寺(稲荷山普賢院光明寺という)で、江戸時代は瀧水寺の末寺でした。
天正元年(1573年)の創建で開基は不詳。現在の本堂は安政5年(1858年)の火災のあと再建されたもので、戦後は保育園として地域の子弟教育の場となっていました。境内には金毘羅宮、地蔵堂、印西大師などが祀られているほか十九夜塔、下総型板碑、筆子塔、万九郎地蔵など多種多様の石造物があります。

弥陀三尊下総型板碑

弥陀三尊下総型板碑

弥陀三尊下総型板碑

昭和57年市指定有形文化財に指定。板碑は仏を供養するため石で造った卒塔婆。鎌倉時代から戦国時代の約400年間にかけて多くつくられた。市内で唯一の黒雲母片岩製の幅広な下総型板碑で大きさは高さ110cm、幅48cm、厚さ3cmで歴応4年4月10日(1341年南北朝時代)の銘があります。
万九郎地蔵

万九郎地蔵

万九郎地蔵

二体の万九郎地蔵は享保12年(1727年)に子育て地蔵として信仰されていました。
香取郡を知行していた旗本大久保万九郎忠孝の叔父鉄右衛門は行跡が悪く香取郡の佐原村に預けられていましたが、行状はひどくなる一方でした。
村人から寛保2年(1742年)に大久保家の江戸屋敷に知らせがいき、鉄右衛門は役人に捕えられました。夜中に逃走しましたが小林村で追ってきた役人を斬りつけた上で本人も死んでしまいました。遺体は光明寺のお地蔵様の横に葬られ、村人によって「武州江戸大久保万九郎殿(以下削り取り)-翁宗純居士霊位」と刻れた墓石が建てられました。そのため子育て地蔵は「万九郎地蔵」と呼ばれるようになり、いつのまにか風邪や咳の神様として信仰されるようになりました。