(印西歴史の会会長 山口永五郎氏寄稿)
小林地域を散策して不思議に思うひとつに巴塚がある。字内に俗称入道寺と云う畑の奥に祀ってあるのが巴御前の古墳(巴塚)と伝えられている。色々な説があって(伝承)はっきりわからないので、印西町史(民俗編)に載っている巴塚を紹介することとします。小林の天神前の八坂神社から、花作の鳥見神社へ向かう左手にある墓地、これが巴塚と云われ、巴御前の墓だという。これについては「小林村鏡」などによると、木曽次郎義仲は木曽谷に兵を挙げ、石川県と富山県の県境にある倶利伽藍峠の戦い(1183年)で、平維盛の率いる十万の大軍を奇策を用いて撃破する。平家は都落ちし義仲は京に入るが、後白河法皇にもて遊ばれて一族の範頼、義経の率いる軍と、宇治川の戦い(1184年)に敗れ逃げのびる途中琵琶湖畔の栗津ケ原で、若い命を散らしてしまう。時に31歳であったという。
義仲の愛妾といわれた巴御前は美女剛勇、武勇の誉れ高い女丈夫で知られていた。義仲の敗死後、和田義盛に子供ともども生け捕りにされるが、時に巴は28歳、子供義秀は9歳であった。義盛は巴を妻として迎え、義秀とともに庇護を受けて鎌倉の小林郷に住むことになる。
和田義盛は源氏譜代の有力御家人の一人で、侍所別当として大きな勢力を持っていた。義秀が17歳に成長のおり、義盛の肝煎りで、下総の地に城を築き城主となって、その周辺の土地を住んでいた鎌倉の小林郷になぞらえて「小林」と名づけたという。これが小林地名の由来といわれる。一方頼朝は幕府を開いて7年後(1199年)武家政治も軌道にのり始めた矢先急死し幕府は動揺した。2代将軍は頼家が継いだが、政治家としての器ではなく、その間にあって執権職にあった北条氏は、頼朝の妻で尼将軍といわれた政子は、政治の実権を我が手中に納めようと術策を弄し、まずは二代将軍を幽閉し、そして暗殺した。
次は有力御家人の抹殺で、中でも実力者の侍所別当、和田義盛はその例に洩れず北条氏の執拗な挑発に乗ってしまい三大将軍将軍実朝の制止を振り切って謀反を起こしてしまう。世に言う和田合戦(1212年)で優勢に戦いを進めていたが一族の三浦義村の裏切りにあい敗死する。67歳であった。この合戦における小林城主朝比奈三郎義秀の奮戦は目ざましいものがあったといわれる。義盛の敗北により和田一族は滅亡し、巴も鎌倉にいられず難を避けて小林にくる。義秀も北条氏の追及を逃れるために、農民の姿に身をやつして潜伏していた。
やがて巴と義秀は再会して8年近く生活を共にしたが、再び北条氏の追及がのびてくる気配を察して、義秀はいち早く身の危険を感じ母の巴をおいて第二の故郷ともいえる小林の地を跡にして落ち延びていった。66歳の巴は、二男秀景に養われて波乱に満ちた人生を閉じたが、秀景は小林の地に土着して川村三郎太夫秀景と名乗ったといい、川村家の先祖であるといわれている。